自由、他行為能力、さらには人間の責任、これらと決定論とは、いかにして両立可能なのか。本書の目的は、現代においても活発に議論されるこの問題に対して、著者独自のカント解釈に基づき一つの解決案を提示することにある。本書の構成は大きく三つに分かれる。すなわち、第一に、いままでの両立論の試みを概観する部分(第一章)、第二に、そうした試みに欠けていた洞察を現代行為論に求める部分(第二章)、第三に、両者を越える(ないしは統合する)議論を、批判哲学の検討を通じて提示する部分(第三章〜第七章)である。以下、この区分けに沿って概観する。
著者は、いままで試みられてきた三つの両立可能論の立場、すなわち意志の自由を肯定する立場、意志の自由を否定する立場、物理的非決定論に基づき動作の自由を保持しようとする立場を検討している。
第一の立場としては、アウグスティヌスと前批判期(『形而上学的認識の第一原理の新しい解明』)のカントとが取り上げられる。両者に共通な解決の方向性は、意志という概念の本質(自発性)に訴えるという点に見られる。著者によれば、アウグスティヌスの洞察とは、「『意志』とは本質的に外的な『原因─結果─系列』を断ち切る性格を有し、それゆえ『意志』をそうした『原因─結果─系列』におけるひとつの項のように取り扱うことは概念上誤りである」(20頁)という考えにあり、カントもまた「意志の自発性」(26頁)に訴えていた。だが、たとえ意志という概念の本質がその自発性にあるとしても、いかにしてこの能力は、彼らが同時に受け入れていた(アウグスティヌスの場合は神に基づく、そしてカントの場合は決定 根拠律に基づく)世界の普遍的決定性と整合できるのだろうか。両者はこの点を明確にしなかった。つまり、「意志の自由たるゆえん、すなわち、意志はこうした世界経過の普遍的決定性の連鎖のうちには存在せず、それゆえ意志に基づく〈行為〉と必然性ともって生起する〈出来事〉とは種別的に異なっている、と語りうる根拠」 (63頁)が欠けているのである。
これに対して、むしろこうした意志を否定する、つまり行為を出来事へ還元しようとする試みが第二の立場である。この立場を徹底したのはヒュームである。彼は、動機・気質・環境と行為との間に見られる「恒常的連接」から、これらの間にも外的物体と同じ意味での因果関係を認める。つまりこの解釈によれば、外部に原因を求めることのできない「自由意志」は否定され、行為の直接的な原因である意志における「強制の不在」(39頁)ないしは「外的障害の欠如」(35頁)という形のみが認められる。しかし同時に、この考えにもとづくと、「帰責が通常の理解とはきわめて異なった仕方で解釈される」(42頁)ことになる。つまり、ある人の責任を問うのは、彼が他行為能力をもっているからではなく、それによって「何か有益な� ��果が期待できる」(同上)からなのである。こうした帰責理論は、「無実の人間の処罰をもみせしめの刑として正当化しうる」(同上)以上、とても受け入れることはできない。こうした方法によって、「われわれの日常的な〈行為〉概念を適切に説明することは不可能であるように思われる」(307頁)のである。
このような不合理な見解に対して、むしろ普遍的決定論を否定する、つまり動作の自由を示すことで自由意志を確保しようとするのが第三の立場である。著者は「予言破りの自由」および「エントロピー減少系における非決定性」を考察し、各々の主張に対して別々の批判を展開するが、両者に対する根本的な批判は、「世界を『閉じた物理系』として捉える点」(60頁)に向けられる。普遍的決定論を否定することが仮に可能であるにしても、それによって示される動作の自由は、せいぜいのところ「無差別の自由」を意味するに過ぎない。ところがこうした意味での自由は偶然に他ならず、帰責の根拠にはなりえない。なぜなら「帰責の論理は、完全に偶然的に生じた結果に対する責任までをも要求しているわけではない」(27頁)から である。それ故にこの見解をとることもできないので ある。(61頁)
第一の立場と第二・第三の立場とを区分するのは、行為を出来事に還元しうると見るのか、しえないと見るのかという点にかかっている。第一の立場のように自由意志を認めるのであれば、それにもとづく「行為」と「出来事」とは区別されなければならないし、第二・第三の立場のようにそれを認めないのであれば、「行為」は「出来事」に還元されるだろう。そこで著者は、第二のステップとして、「行為」と「出来事」との関係を問う現代行為論へと向かう。
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