2012年4月28日土曜日

Wasurenasoの日記


GOOGLE検索画面の芸術

午後11時30分:4月22日は恒例の"EARTH DAY"でした!仮眠し今年は私も参加出来ました。

花の上をクリックできるでしょうか?

クリックすると"EARTH DAY"と出ました。先日WWF(World Wildlife Fund=野生動植物基金)が世界中の現地時間午後10時に1時間丈明かりを消して自然保護を訴えました。私はPCの具合が悪くそのnews letterを見たのは肝心の時間が終わった後でした。

Google大好き人間ですがほんとうにMs.Mayerのセンスの良さに敬服します。

ロマンティックで鋭い感性を持った女性なのでしょうね。いつも私の眼を楽しませてくれる画像です。

Roses are red,

Violets are blue,

Sugar is sweet,

So are you!

将棋羽生善治名人とチェスNigel Short名人のチェス対局

chessの説明を入れたかったのですが、字数制限があるのか2度やっても、貼り付けができませんでした。Wikipedia日本語版でご覧になれます。ご理解下さい。

3時間近く格闘した結果です。

NHK午後7時ニュース

違う世界の名人同士が対局し最後羽生名人は引き分けで終えました。

羽生善治

Wikipedia日本語版

羽生善治 王位・棋聖

38歳当時

名前:羽生善治

生年月日:1970年9月27日(41歳)

プロ入り年月日:1985年12月18日(15歳)

棋士番号:175 

出身地:埼玉県所沢市、東京都八王子市 

師匠:二上達也九段 

永世称号

十九世名人(襲位は原則引退後)

永世王位(就位は原則引退後)

名誉王座(同上)

永世棋王(同上)

永世棋聖(同上)

永世王将(同上)

名誉NHK杯選手権者

在位中タイトル

王位・棋聖

段位:九段

戦績

タイトル獲得合計:80期(歴代1位タイ)

一般棋戦優勝回数:40回

羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。血液型AB型。

概要

1996年2月14日に将棋界で初の7タイトル独占を達成。

通算タイトル獲得数は、大山康晴に並び歴代1位タイ。全7タイトル戦のうち竜王戦を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格の保持(いわゆる「永世六冠」)に加え、名誉NHK杯選手権者の称号を含めた7つの永世称号の保持は史上初である。

また、2011年7月に棋聖のタイトルを取得した事でタイトル保持を22年間維持し、大山の21年間を抜き、中原誠の22年間に並んだ。

羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。

プロデビューまで

埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住む。

小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わる。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになる。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた。

道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり、いわゆるアマ強豪のレベルとなる。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による'連合軍'と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった。

1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である'赤ヘル'を被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)。

そして、1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝をする。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する。

5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた。しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司新八段だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた。

同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[注 5]により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。

戦績

末尾の年表 も参照。

デビュー、そしてスターダムへ

第38回 NHK杯戦 準々決勝

第60手 △3二同玉まで

(この次の一手が▲5二銀)

△加藤一二三 持駒:桂歩

▲羽生善治 持駒:角金銀二香歩

デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率1位賞を受賞する。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定[注 7]のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に打った妙手▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)に驚いた解説役の米長邦雄は「おぉー、やった!」とマイクの音が割れる大声を上げた。対局室と解説室は離れているにもかかわらず、その声は対局室の羽生に聞こえた。

この1988年度は、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、しかも、その後に3回(合計4回)達成している(将棋大賞 を参照)。

1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を得、タイトル戦初登場。七番勝負の相手は、研究会「島研」での'恩師'であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった。

翌年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、以降、一冠以上を保持する状態が長く続く。また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である。

七冠独占

1992年度、第40期王座戦で福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。

同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、「タイトル保有の図式が逆転」した。

1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」。しかし、竜王位を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。

一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。羽生は3連勝・2連敗の後の第6局で勝ち、奪取。

同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。

この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。

そして最後の第7局(1995年3月23 - 24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名)。敗れた羽生は、「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った。

ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。そのかたわら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取る。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった。

【七冠達成の図】

第45期王将戦第4局

82手目△7八金

△羽生善治竜王・名人

持駒:金銀桂歩四

▲谷川浩司王将

持駒:飛角金桂歩三

第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県のマリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日 - 2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。

4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を成し遂げた。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという。

タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。

なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった。

直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、歴代2位の0.8364(46勝9敗)という数字であった。

新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。

次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で伏兵・三浦弘行五段を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引きの趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日 - 7月30日 = 棋聖失冠日)。

七冠以後


どのような国はオスマン帝国の一部であった

三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。獲得賞金・対局料ランキングでは羽生は1位が'指定席'であるが、1997年は谷川竜王・名人にその座を譲った。

第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角)を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった。

第38期(1997年度)王位戦七番勝負(対・佐藤康光)から第48期(2000年度)王座戦五番勝負(対・藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)。第13期(2000年度)竜王戦七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して止められる(藤井はこれをもって竜王戦史上初の3連覇)。

2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明五段を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。

同年度の竜王戦、王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止される。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなる。羽生が一冠のみとなったのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、タイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖(一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得る。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占める。また、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得るが、その名人戦(2005年4月 - 6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸する。結果的に、この2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。

2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである。

2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となる。

2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得、史上初の、いわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得る。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の'初代永世位決定戦'となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日 - 18日に山形県天童市で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した[注 22]。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。

2010年6月1日、第51期王位戦白組プレーオフで戸辺誠に勝ち、通算1100勝を達成。同年、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛し、記録に花を添える(2010年6月26日)。また、第58期王座戦では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛(2010年9月29日)。同一タイトル19連覇、同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した。

2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた第69期名人戦で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の第52期王位戦で広瀬章人王位に挑戦し、4勝3敗で奪取(2011年9月13日)して通算タイトル獲得数を80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ。しかし、記録達成かかった第59期王座戦で、挑戦者の渡辺明竜王にまさかの3連敗を喫し、1992年以来19期連続で保持した王座から陥落、記録達成もならなかった。なお、同年、初出場の第19回富士通杯達人戦(非公式戦)で優勝している。

2012年2月の第70期順位戦第8局で谷川浩司を破り8勝0敗。1敗が不在(この時点での2位は渡辺竜王の6勝2敗)だったため、最終局を待たずして森内俊之名人への挑戦権を獲得。さらに3月2日の順位戦最終局では郷田真隆九段を破り史上3人目となるA級順位戦全勝を達成した。2月11日、第5回朝日杯将棋オープン戦で、2年ぶり2度目の優勝。

第58回(2008年度) - 第60回(2010年度)のNHK杯戦で史上初の3連覇。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立つ。なお、第59回・第60回の決勝の相手は、2年続けて「関西若手四天王」の一人と呼ばれる糸谷哲郎五段であった。

さらに翌年度の第61回(2011年度)大会では3月18日放送の決勝で渡辺明を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦史上初の4連覇を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した。これによって七つ目の永世称号の獲得となり、自身の記録を更新する歴代最多記録となった。 また、通算優勝回数を123回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)とし、大山康晴の最多記録にあと1とした。

棋風・評価

居飛車、振り飛車、相振り飛車も自在に指しこなすオールラウンドプレイヤーである。

好きな駒は銀将。攻め、受けの要であるため。

また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる'歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男'」としている。

終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれた。

金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため、棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている。

著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。

長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない。」と語る。これに関しては他に、観戦記者が「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある。

渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日。」、「羽生名人はどんな戦法も指せる。」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな…。」と ナレーションの「差を見せ付けられた」との声と共に語った。

深浦康市は、2003年に「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ。」と語る。

中原誠は、49期王位戦特集にて「オールラウンドプレーヤーで欠点がない。歴史上初の棋士。」と評した。また、スランプ時の羽生を「七冠を達成して目標がなくなり一時期成績が落ちた。今はまた大山先生の記録を抜く目標ができた。」としている。

谷川浩司は著書の『集中力』で、「羽生さんはあらゆる戦法を指しこなせる棋士。オールラウンドプレイヤーで変幻自在のため、どう指してくるのかわからない。攻めも受けも強い。こだわりが全くないのが特色。棋風がない。」と述べ、2008年の羽生の永世名人獲得時のコメントでは最近の羽生の将棋を「勝負にこだわらない内容重視の将棋」と述べている(羽生自身も2007年頃からNHKの番組等で何度も「もう勝ち負けにこだわる将棋には意味がないと思うんですよ」と現在の将棋への取り組み方を示した)。

複数の戦法を高いレベルで使いこなすオールラウンド型であるためか、デビューから20年を過ぎても「光速流」や「自然流」など棋風を表すキャッチフレーズはつけられていない。

発言

「将棋と人生は別物。『遊びは芸の肥やし』は遊ぶための口実に過ぎない。『将棋は技術』と割り切っている。」

「わからないからこそ勝負どころ。僕の場合、読みより勘で決める。」

「(読む手数は)直線で30 - 40手。枝葉に分かれて300 - 400手。」

「記憶力のピークは20歳の頃だった」(つまり、七冠制覇のときはすでに下降していた)

「1回の対局で3キロぐらいは痩せる」

「(自分に)弱点はあるが教えない。『そんなことか』と思われそうなものではあるが、それを探り出すのが勝負の世界。」

(以上は、七冠達成直後の、田丸美寿々によるインタビュー(1996年2月19日)から) 「今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

「一人で走ってたら今もこうして走れているか分からない。みんな(羽生世代)で走ってきたからこそ今の自分がある。」

パーソナルデータ

身長は172cm。血液型はAB型。

妻は元俳優でNHK連続テレビ小説「京、ふたり」のヒロイン役を務めた畠田理恵。婚約発表は1995年7月。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日。1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。

父と母は同じ会社の出身者で、しかも、お互いの祖母同士が姉妹という親戚関係である。

お笑い3人組Bコースのメンバーのハブ(本名:羽生幸次郎)は従弟。

八王子桑の実幼稚園卒園、八王子市立恩方第一小学校入学、2年生に上がるときに近くに新設の同市立元木小学校へ転校。

プロ棋士となってからも一時東京都立富士森高等学校に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、中退。後に東京都立上野高等学校通信制を卒業。母は、将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔したと述べているが、羽生は逆に、「高校に行ったおかげで将棋を嫌いにならずに済んだので、母には感謝している」と述べている。

対局関連の逸話

重要な対局 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」という旨を述べている。

永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みする。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。唯一永世称号を獲得していないのは竜王で、2002年に通算6期獲得で残り1期としたが、その後止まっている。2008年に渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。

第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。これは午前9時45分頃の出来事であったため、NHK BS2の生放送(9:00 - 10:00)でこの様子がリアルタイムで映し出された。後で羽生は「驚きましたが、10秒か15秒で済むことでしたから」とコメントした。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は「(羽生とは昔から顔見知りであったため)うかつなことをしてしまった」との反省の弁を述べた。この対局には勝利している。

東日本大震災の発生から約3か月後の2011年6月12日、被災地である仙台市において「自分と闘って負けない心」と題する講演を行ったが、この前後の1週間には重要な対局が集中した。6月7日-8日は第69期名人戦七番勝負第6局(対・森内俊之)、11日は第82期棋聖戦第1局(対・深浦康市、10日は前夜祭)、13日には第52期王位戦挑戦者決定戦(対・藤井猛)という過密な日程であったが、この3つの対局すべてで勝利した。

所作・習性 駒を持って指すとき、細い指をぴんと伸ばし、そのせいで手の甲に骨が浮き出る。また、初手を指すときは、駒をゆっくりと舞わせてから盤面に下ろす。特に▲7六歩の場合は左斜めに舞わせることがあるが、これは他の棋士達ではあまり見られない所作である。第61回(2011年度)NHK杯テレビ将棋トーナメントのオープニング画面でも、それが見られる。

打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草[注 26]をすることがあるのも、羽生の特徴である。これは、勝負どころの一手や終盤で勝ちに行く手を指すときに見られる。第60回(2010年度)NHK杯テレビ将棋トーナメントのオープニング画面でも、それが見られる。

2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった。その後も、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになった。手の震えが出るようになったのは30代に入ってからである。田中寅彦はNHK杯で羽生の将棋を解説していた際「イップスが出ないね」と発言し、この震えをイップスと見ている。

プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる。なお、同様の「にらみ」は佐藤康光や田村康介にも見られる。


メリーランド州はどのくらいですか?

初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている。

相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局では挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけている。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している。

諸対局内容 初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。

若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使ったことがある。

1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。

1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。なお、後に羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている。

2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は、トン死の筋に気づいたとき、「あれ?おかしいですね。えぇぇ! トン死?「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」「ひょぉぉ!」などの驚嘆の声を連発した。勝又清和が将棋ニュースプラスで、この対局を解説した際、「羽生さん自身もこんな奇跡的な展開はないなと(言っている)」、「(羽生が)後でネットも見てたらしいですね。その話を聞いた時『ニコニコ動画に出てましたね』と結構反響があったので。」などのエピソードを紹介。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。

2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日 - 9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[注 29]を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている。

史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミスによって、痛恨の時間切れ負けをする。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢の局面であった。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた。

趣味

趣味はチェスと水泳と言われていたが、2010年4月27日放送の「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK総合)では、「(趣味は)あまりない。ぼんやりすること、ぼーっとすることが好き」と語った。

チェス

趣味のチェスにおいても強豪である。

海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年にフィラデルフィアで行われたワールドオープンでは、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。また、フランスのチェス大会に出場した羽生が、フランス語で買い物をしている姿は、「情熱大陸」で放送された。

チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26才とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師のジャック・ピノーに一から教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った。

上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅い事、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。

1999年6月には、非公式の自由対局ながらInternational Master(以下IM)のAlmira Skripchenkoに2戦2勝。しかしその夫(当時)であるGrand Master(以下GM)のJoël Lautierに森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。 2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。

また2002年10月には再来日したGMのJoel Lautierに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。

以降2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年6月に参加したWorld OpenではIMノームを達成した(日本人として3人目)。特に30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(ただし早指しはFIDEのレイティング対象にならない)。

上記の成績から羽生は日本人として3人目となるFMの称号を獲得、2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジアランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月を最後に一切チェス大会に出なくなる。ちょうどその頃の出来事として、獲得賞金・対局料で7年ぶりに1億円の大台を割る、永世名人位を森内に先取される等があった。現在FIDEの統計においては、Active players(活動中のプレイヤー)の枠からは外されている。日本人の記録では同じくJCA所属のFM上杉晋作が2011年2月でレーティング2331、世界ランキング4052位であり、羽生の最高レーティング(2404)と世界ランキング(2780位)は更新されていない。ただしFIDEレイティングは長年インフレ傾向にあり、羽生以前に順位では羽生より高かった選手が存在する。

選手としての参加はしなくなったが、2011年10月にはフランスのロワールで開催された国際将棋フォーラムで、フランス国内チャンピオンのマキシム・バシエ・ラグラーブ(直近の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、不利とされる後手黒番を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。ラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べている。

2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分 5.5P/6R)を果たす。

エピソード

座右の銘は「運命は勇者に微笑む」。

好物は蕎麦。苦手なものはカエル。

普段は自然体で喋るが、インタビューで重要な対局について問われると、「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、慎重に言葉を選んで受け答えをする。

対局時の寝癖がトレードマーク(結婚後は頻度が少なくなった)で、演歌歌手・長山洋子の歌「たてがみ」は、それになぞらえたタイトルのオマージュソングである。また、書籍「新しい単位」(扶桑社)では、「だらしなさ」の単位として「hb(ハブ)」が採用されている。日本テレビのテレビ番組『進め!電波少年』では、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画を掲げて、式場へアポなし突入をされた。なお、『進め!電波少年』では、松村と19枚落ち(羽生の駒は王将のみ)で対戦するという企画もあり、羽生が勝っている。

チャトランガ系統のゲームは一通り出来る。囲碁は小学生の時にやっており五級からは苦戦したものの初段になりやめた。

漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻に記している。ただし、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している。

2006年11月に八王子市より八王子観光大使を委嘱される。

子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。

大盤解説を務める際、ほかの棋士達と比べて駒の動かし方が雑である。たとえば、先手の歩で後手の駒を取るとき、通常通り取ってから歩を進めるのではなく、将棋を覚えたての子供のように歩をスライドさせて後手の駒にぶつけ、その駒を斜め向きにしてしまう。さらに、それが隣接するマス目にある駒にも及んでぐしゃぐしゃになることもある。

昇段履歴

1982年12月2日(12歳) - 6級で奨励会入会

1983年2月3日(12歳) - 5級 (9勝3敗)

1983年3月28日(12歳) - 4級 (6連勝)

1983年5月11日(12歳) - 3級 (6連勝)

1983年7月7日(12歳) - 2級 (6連勝)

1983年8月24日(12歳) - 1級 (6連勝)

1984年1月11日(13歳) - 初段 (12勝4敗)

1984年9月10日(13歳) - 二段 (14勝5敗)

1985年4月25日(14歳) - 三段 (12勝4敗)

1985年12月18日(15歳) - 四段 (13勝4敗) = プロ入り(当時史上3人目の「中学生棋士」)

1988年4月1日(17歳) - 五段 (順位戦C級1組昇級)

1989年10月1日(19歳) - 六段 (竜王挑戦)

1990年10月1日(20歳) - 七段 (前年の竜王位獲得による)

1993年4月1日(22歳) - 八段 (順位戦A級昇級)

1994年4月1日(23歳) - 九段 (タイトル3期 … 八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

主な成績

タイトル・永世称号

色付きは現在在位。

詳細は末尾の年表 を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録 、および、将棋のタイトル在位者一覧

一般棋戦優勝

通算40回 = 歴代2位(1位は大山康晴の44回)

詳細は、末尾の年表 を参照。

非公式戦優勝

達人戦 1回(2011年度 = 第19回)

銀河戦 2回(1997年度 = 第5回、1998年度 = 第6回)

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

詳細は末尾の年表 を参照。記録は次項を参照。

記録(歴代1位のもの)

タイトル関連 通算獲得タイトル80期(歴代1位タイ)

一冠以上保持 - 20年超(1991年3月18日棋王獲得 - ) ※継続中

同一タイトル連続保持 - 19期(王座:1992年 - 2010年)

同一タイトル連勝 - 19連勝(王座:2004年 - 2010年)

最高同時タイトル - 七冠(1996年2月14日-1996年7月30日、史上唯一)

最多永世称号獲得 - 7(永世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世棋聖、永世王将、名誉NHK杯)

A級順位戦全勝 - 第70期(2011年度)で達成。史上3人目。

優勝関連 NHK杯戦 優勝回数 - 10回(1988(=第38回)、1991、1995、1997-1998、2000、2008-2011年度) - 名誉NHK杯

NHK杯戦 連続優勝 - 4連覇(2008(=第58回) - 2011年度) ※継続中

オールスター勝ち抜き戦 - 16連勝(2000年 = 第20回)

将棋大賞関連(受賞年ではなく対象年度で記す) 最年少最優秀棋士賞 - 18歳(1988年度)

年度最多勝利 - 68勝(2000年度)

年度最多対局 - 89局(2000年度)

年度記録4部門賞独占(最多対局、最多勝利、勝率1位、連勝) - 4回(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない

最多最優秀棋士賞 19回 - 2011年度受賞現在

高記録達成回数 年度勝数60勝以上 - 4回[注 38](1988年度(64)、1992年度(61)、2000年度(68)、2004年度(60))

年度勝率8割以上 - 3回(1987年度(.820)、1988年度(.800)、1995年度(.836))(2回は中原誠)

通算記録 1000勝所要年月最速 - 22年0か月

最年少1000勝 - 37歳2か月23日

1000勝達成時までの最高通算勝率 - .7283

なお、通算600勝・800勝到達も最速・最年少・最高勝率記録を保持している。 珍記録 将棋のタイトル戦七番勝負史上初の3連勝4連(2008年12月18日 第21期竜王戦第7局)

最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日)

タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日、当時棋王)

賞金関連 獲得賞金・対局料ランキング首位 - 14年連続18回(1993年 - 1996年、1998年 - 2011年、なお1997年は谷川浩司に次いで2位)

その他表彰

1994年2月25日 - 都民文化栄誉章

1996年3月21日 - 内閣総理大臣顕彰

1999年2月10日 - 将棋栄誉賞(公式戦通算600勝)

2003年2月23日 - 将棋栄誉敢闘賞(公式戦通算800勝)

2007年12月20日 - 特別将棋栄誉賞(公式戦通算1000勝達成 = 史上8人目)

2008年10月10日 - 第56回菊池寛賞(将棋界では大山康晴十五世名人に次ぐ史上2人目)

2010年 - 現役勤続25年表彰

著書

『羽生の頭脳』シリーズ(全10巻) 日本将棋連盟、1992年 - 1994年 ISBN 978-481970310-9 ほか

『羽生の法則』シリーズ(1 - 6巻) 日本将棋連盟、2003年 - 2007年 ISBN 978-4819703727 ほか

『羽生善治の終盤術』(全3巻) 浅川書房、2005年 - 2006年 ISBN 978-4-8613-7011-3 ほか

『変わりゆく現代将棋』(上・下) 毎日コミュニケーションズ、2010年 ISBN 978-4839934408、ISBN 978-4839934415

『決断力』 角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年 ISBN 978-4047100084

『先を読む頭脳』(松原仁・伊藤毅志と共著) 新潮社、2006年 ISBN 978-4103016717

『勝ち続ける力』(柳瀬尚紀と共著) 大和書房、2010年 ISBN 978-4-10-301672-4

『自分の頭で考えるということ』(茂木健一郎と共著) 新潮社、2009年 ISBN 978-4479391999

『結果を出し続けるために (ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)』 日本実業出版社、2010年 ISBN 978-4534047786


カナダは多文化国家を持っていません

『羽生善治の思考』 ぴあ、2010年 ISBN 978-4835617770

『大局観 自分と闘って負けない心』 角川書店(角川oneテーマ21、角川グループパブリッシング)、2011年 ISBN 978-4047102767

『40歳からの適応力』 扶桑社、2011年3月 ISBN 978-4594063924

ほか

Nigel Short

From Wikipedia英語版抜粋

Nigel Short

Full name:Nigel David Short

Country(国籍):England(イギリス)

Born(出生):1 June 1965 (age 46)(1965年6月1日-46歳) Leigh, England(イギリス・リー)

Title:Grandmaster(タイトル:グランドマスター)

FIDE(Fédération Internationale des Échecs (French: World Championship Federetion=世界チェス協会)rating=順位:2697 (March 2012)

(No. 49 in the March 2012 FIDE World Rankings)20120年3月の世界ランク#49

Peak rating:絶頂期=2712 (April 2004)2024年4月

Nigel David Short MBE(Member of the British Empire) (born 1 June 1965 in Leigh, Lancashire) is an English chess grandmaster earning the title at the age of 19. Short is often regarded as the strongest English player of the 20th century as he was ranked third in the world, from January 1988 – July 1989 and in 1993, he challenged Garry Kasparov for the World Chess Championship, in London. He has defeated 12 of the 19 officially recognised World Champions since 1886. Currently the second oldest player in the world top 100, Short is also a chess columnist, coach and commentator.

Nigel David Short(MBE=イギリス王位会会員)(1965年6月1日ランカシャイア州リー生まれ)はイギリスチェスのグランドマスタータイトルを19歳で取った。Shortは1988年1月世界第三位になり、1989年7月及び1993年ロンドンで行われたGarry Kasparovと世界選手権に挑戦し勝って以来良く20世紀最強のイギリス人打手と言われている。Shortは1886年以来世界チャンピオンシップ正式試合19回中12回優勝している。現在世界トップ100人中2番目に高年齢であり、チェスのコラムニスト、コウチ及び解説者を務めている。

将棋

Wikipedia日本語版

将棋の盤と駒。

手前側の駒はゲーム開始時の状態、向こう側の駒は位置は同じで裏返しにして配置している

将棋(しょうぎ)は、日本将棋(にほんしょうぎ)、本将棋(ほんしょうぎ)ともいい、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。チェスなどと同じく、インド古代のチャトランガが起源と考えられている。『レジャー白書』によると将棋人口は推定600万人である。

概要

日本では特に本項で述べるいわゆる「本将棋」が普及しており、中将棋もわずかではあるが愛好家が存在する。他に小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、主に福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。

本将棋は持ち駒の観念があることが特徴で、これは諸外国の将棋類似のゲームにも例のない独特のルールである(近年は持ち駒を利用したチェス派生のゲームも考案されている)。

本将棋の他にも、盤のマス目の数や駒の種類を変えたり、将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯が考案されている。本将棋以外の将棋、および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照されたい。

ゲーム理論の分類では二人零和有限確定完全情報ゲームに相当する(2007年現在の日本将棋連盟公式ルールを前提とする)。

将棋人口の概要

『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2006年度710万人、2007年600万人と漸減傾向が続いている。

将棋人口が半減した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもある。

また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及しはじめ、現在は、1998年に運営を開始しアカウント延べ数20万人の将棋倶楽部24や、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などによる対局が広く行われるようになっている。2010年には英語が公用語の81Dojoが開設され、2011年末時点で、6000人以上が登録している。

ルール

基本ルール

2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。

将棋の対局には縦横9マスずつに区切られた将棋盤を用いる。対局者は将棋盤を挟んで向かい合って対局することになるが、このとき将棋盤の自分側から3段目までのマスを自陣、相手側から3段目までのマスを敵陣と呼ぶ。

将棋の対局を始めるには、駒を盤上の定められた位置(初形の位置)に配置する。将棋の正式な礼法では、対局者のうち上位者が駒袋に入った駒を盤の中央に取り出し、対局者はそれぞれ自陣に大橋流あるいは伊藤流の並べ方によって駒を並べてゆく。この際、上位者が王将、下位者が玉将を用いる。なお、自分側の王将あるいは玉将のことを自王・自玉という。

他の将棋に類するゲーム(チェス、シャンチーなど)と違い、駒に色分けなどはなく、敵味方共通の駒を用いる。ただし駒は五角形で向きが存在し、一局を通じて自分の駒と相手の駒は常に向き合う方向に配置される。したがって、駒の向いている方向によって、その駒が現在自分と相手のどちらに属しているかが表されることになる。

将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。駒は王将(王)、飛車(飛)、角行(角)、金将(金)、銀将(銀)、桂馬(桂)、香車(香)、歩兵(歩)の8種類であり、それぞれ動ける範囲が決まっている。なお、玉将が出来たのは江戸時代後期で、それまでは王将二枚で構成されていた。後述する駒の動きを参照のこと。これらの駒のうち、飛、角、銀、桂、香、歩については成る(後述)ことによってが駒の動きが変化する。将棋駒のうち一方向に向かって何マスでも進めることのできる飛車、

(成った飛車)、角、馬(成った角)、香のことを総称して「走り駒」という。なお、「駒の利き」とは盤上にある各駒の効力が及んでいる範囲(機能している範囲)をいい、各駒の移動可能となっている範囲に相当する。

盤上の駒は常に1つのマスに入ることになる。1つのマスに複数の駒が存在したり、1つの駒が2つ以上のマスに同時に存在することはできない。

対局において先に駒を動かし始める側の対局者を先手、そうでない側の対局者を後手という。将棋では一局を通じて先手と後手が交互に盤上にある自分の駒のいずれか1つを一度動かすか、持ち駒(相手から取って自分の駒となった駒。後述)を1つ盤上に置くことを1回ずつ繰り返す。この手順における一回の動作(盤上の駒を動かす又は持ち駒を盤上に置く)を「一手」と呼び、動詞としては盤上の駒を動かす場合には「指す」、持ち駒を盤上に置く場合には「打つ」という。

自分の番(手番)が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを一回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスすること(自分の駒を全く移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。

盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて駒の動きに書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。 本来の駒の動きの範囲内に含まれていても、盤上に存在しないマスには移動できないので、それぞれの駒の利きは盤上のマスの範囲に限られる(飛、角、香などの走り駒の移動できる範囲は盤の端のマスまでになる。また、盤の端に近い位置にある駒は移動できる範囲がマスのある範囲に限られる)。

駒の移動においては、それぞれの駒は原則として他の駒を飛び越して移動することができず(桂馬は例外。後述)、また、盤上の駒は常に1つのマスに1つの駒しか入ることができないことから次のような制約がある。

1.自分の駒を移動させることができる範囲内に他の自分の駒が既に存在する場合、その駒によって塞がれているマスには入れない。また、他の駒を飛び越すことはできないので、他の自分の駒を飛び越して先のマスへと移動することもできない(自分の駒が移動可能な範囲は他の自分の駒が存在するマスの1つ手前のマスまでとなる)。

2.自分の駒を移動させることができる範囲内に相手の駒が既に入っている場合、その相手の駒を取って自分の「持ち駒」とした上で、自分の駒をその相手の駒が存在したマスの位置に動かすことができる。したがって、自分の駒が移動可能な範囲は、その相手の駒が存在するマスにまで及ぶことになる。ただし、他の駒を飛び越すことはできないので、飛、角、香などの走り駒であっても、移動範囲を塞いでいる駒自体を取ることはできるものの、移動範囲を塞いでいる相手の駒を飛び越して先のマスへと移動させることはできない。

3.桂馬は他の駒とは異なり移動可能なマスが元のマスから離れた場所にあるため(後述する駒の動きを参照)、周囲のマスに他の駒があっても、それを飛び越して移動することができる。ただし、桂馬の移動可能なマスに既に自分の他の駒が入っていて塞がれているときは移動できない。なお、桂馬の移動可能なマスに先に入っている駒が相手の駒である場合には、その相手の駒を取ってそのマスへ移動することができる。

以上のほか、玉将の位置との関係で、自分の駒を移動させることによって自玉を相手駒の利きにさらすことになる場合には、後述する反則または禁じ手に該当することとなり移動できない。

持ち駒は盤上の空いているマスであれば、後述する反則または禁じ手に該当する場合(二歩や行き所のない駒となる場合)を除いて、好きなところに打つことができる。

成る

前述のように盤上の相手側3段を敵陣と呼ぶが、玉、金以外の(飛、角、銀、桂、香、歩)は、敵陣に入るとき、敵陣の中で動くとき、敵陣から出るときに「成る」(駒を裏返す)ことができる。成った駒を成駒と呼ぶ。

駒が成った場合には駒の動かせる範囲が変化する。成りによって、飛は竜王(竜)、角は竜馬(馬)となり、それぞれ飛・角の元々の駒の動きに加え全方向1マスの範囲にも動けるようになる。また、成りによって、銀は成銀、桂は成桂、香は成香、歩はと金となり、以後、これらの駒は金と同様に扱われる。歩が成った場合には金と同様に扱われるので、同じ縦の列に成った歩(と金)と歩が並んでも後述の二歩の反則にはならなくなる。

成りは強制ではなく、後述する反則に該当する場合(行き所のない駒になる場合など)を除いて、成らないこと(「不成(ならず)」と称する)を選択することもできる。一度、不成を選択した場合であっても、以後、その駒が成る要件(敵陣に入るとき、敵陣の中で動くとき、敵陣から出るとき)を満たすたびに、成ることを選択することができる。なお、成らないまま敵陣から出た駒は、もう一度敵陣に入るまで成りを選択することができない。

上述のように成るか否かは任意で強制ではない。銀、桂、香については、成ってしまうと元々移動が可能だった位置に移動できなくなる不都合を生じることがある(例えば銀が成ると真後ろと左右の位置には移動できるようになるが、両方の斜め後方の位置には動かせなくなる)ので実際の対局では成るか成らないかは慎重な検討を要することもある。これに対して、飛、角、歩については、成っても元々移動が可能だった位置に移動できなくなるという不都合を生じることはないので、成りが選択されることがほとんどである。ただし、極めて稀に将棋の終盤において、駒が成って利きの範囲が広がることで相手の玉将が逃げることができずに一つのマスに釘付けの状態になり、(盤上の駒では詰ませることができず、持ち駒が歩の� ��であるなどの理由で)相手の玉将を詰ませる手段が後述の反則手である打ち歩詰め以外にはなくなってしまうという局面を生じることがあり、このような打ち歩詰めの手順となる局面を回避するために、あえて駒を成らない場合もある。その逆に、成ることによって自玉に詰みが生じるのを回避するために、あえて駒を成らない場合もある(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまうケース)。

成る時には、まず成る前の駒の動きに沿って動かし、動かした先のマスに駒を裏返して配置する。銀、桂、香の裏面には「金」の字が崩して書いてある(歩の裏面の「と」も本来は「金」あるいは同音の「今」の字を崩したもの)が、もともとの駒の種類が分からなくならないように各駒の種類に応じて裏面の「金」の字体は変えてある。

一度成った駒は相手に取られるまで成駒としての性質を失わず、相手の持ち駒となるまで元の駒の動きに戻すことはできない。

成った状態の駒を打つことはできない。持ち駒を敵陣に打つ場合も、成る前の駒を打つ。また、相手の成駒を取って自分の持ち駒とした場合、駒は成る前の状態に戻る。

駒の動き

上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。成銀、成桂、成香、と金は全て「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても先手が玉将を持つ事で後手と区別している働きが存在する。

ゲームの進め方

対局者の棋力の差によって手合割(ハンデ)がある程度決まってくる。

平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。

上図のように盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、…、9、縦方向に一、二、三、…、九とマス目の位置を表す座標が決められている。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は☗(Unicode文字参照2617、)、後手は☖(2616、)で示すのが一般的だが、コンピュータ上ではフォントがないことも多く先手は▲、後手は△で示すことも多い。

先手・後手は振り駒により決定する。ハンデをつける場合には弱い者が先手をもつ。棋力の差が非常に大きく、平手では勝負にならない場合、駒落ち戦とする場合もある。

上図は二枚落ちの場合である。駒落ち戦の場合、駒を落とした方を上手(うわて)、落とされた方を下手(したて)という。駒落ち戦では上手から指し始める。


相手との棋力の差を考慮し、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある[3]。まれに、上手の玉の他に何も駒がなく持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち、銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。

勝敗の決め方

素朴な定義では「先に相手の王(玉将)を取ったら勝ち」であり、対局もそれを前提に進められる。しかし、伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、逆転不可能と判断した時点(最悪でも詰みの状態)において敗者が投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。ただし、投了の判断はあくまで任意であるため、詰みの状態からの着手、あるいは不注意による着手で王を相手の利きにさらしたままの場合は、王を取られる以前にその着手自体が反則となるよう「日本将棋連盟規則」では定められている。

どちらか一方が、相手の玉に王手をかけ相手がそれを解消できない状態になったら勝ちとなる。この状態を「詰み」という。通常の対局ではまず発生しないが、自分の手番で、自玉に王手はかかっていないが合法手がない場合(チェスでいうステイルメイトの状態)、合法手がないため負けは確定しているが、詰みではないので投了するか持ち時間がなくならない限り直ちに負けにはならない。

どちらか一方が、自分の手番のときに投了することで負けとなる。自玉が詰まされることが確定的となったときのほか、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合、相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合、相手の攻めを受け切れない場合、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合など、自身の勝利がほぼなくなったと思われる場合に投了する。

同一局面(持ち駒も含む)が4回現れた場合千日手となり、無勝負・指し直しとなる。ただし、後述するが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の反則負けとなる(以前

「同一手順を3回繰り返した場合」というルールだったが、駒を打つ場所を変える方法で無限に近い組み合わせが成立する場合が発生したため、「同一局面」に変更された)。

先後両者の玉(王)が互いに入玉し、玉が詰む見込みがなくなった場合、判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合があり、これを持将棋という。大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点とし、24点未満なら負けというルールや、27点未満なら負けというルールなどが存在する。

プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計(チェスクロック)を扱い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。プロの公式戦以外では持ち時間なし(1手ごとに10秒以内に指すなどのルール)の対局もある。

対局の終了後、感想戦(局後の検討)を行うことがある。感想戦の結果によって対局の勝敗が入れ替わることはない。仮に感想戦中に反則が見つかったとしても、すべての勝敗は投了優先である。

相手の玉が自駒の利き筋にあった場合(王手放置)、もしくは自ら利き筋に晒した場合、その玉を取って勝敗をつけることができる。ただし、これは通常は反則勝ちとなる(後述の通り、相手方が自玉を相手駒の利きにさらす手を指した、とみなされるため)。

反則または禁じ手

次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合直ちに負けとなる。反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、後になって反則に気付き、指摘された時点で勝敗が決定する。ただし、対局相手が反則に気づかないまま投了、終局した際は投了が優先される。

また、対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘しても良い。

二歩 成っていない歩兵を2枚以上同じ縦の列に配置することはできない。 行き所のない駒の禁止 盤上の駒を行き先のない(動けない)状態にしてはいけない。味方の駒に進路を塞がれて一時的に動けない場合はこれにあたらない。打つ場合、不成で進む場合ともに敵陣1段目と2段目の桂馬、1段目の香車・歩兵は配置してはいけない。したがって盤上の桂馬・香車・歩兵がその場所に進む場合は必ず成らなければならない。 打ち歩詰め 歩を打って玉を詰ませてはいけない。ただし、歩による王手が詰め手順の最終手でなければ、歩を打っての王手は反則ではない。したがって、歩を打って王手をかけたのちの連続王手で最終的に「詰み」が成立することは問題がない。また、盤上の歩を突いて玉を詰ます突き歩詰めも反則ではない。 自玉を相手駒の利きにさらす手 自らの着手の後、自らの玉が王手のかかった状態にあってはいけない。すなわち、

1.相手に王手された場合は王手を回避しなければならない。

2.玉を相手の駒の利きに移動してはならない。

3.玉以外の駒を移動させた結果、玉が相手の駒(香車、飛車(竜王)、角行(竜馬))の利きにさらされるようにしてはならない。

連続王手の千日手 連続王手での千日手は王手している側が指し手を変更しなければならない。

その他、基本ルールに反する行為として、2手続けて指す(二手指し)、ルール上移動できない位置に駒を移動する(特に、角(馬)を遠い位置に移動させるときに間違えやすい)、駒を成れない状況で成ってしまう、玉や金を成ってしまう、成り駒を盤上で裏返し元の駒に戻す、成り駒を打つ(持ち駒を裏返して打つ)、持ち駒を駒台に乗せず手に隠し持つあるいは将棋盤や駒台の陰に置く(隠し駒)などの行為も反則となる。

いったん着手した手を変える行為(待ったと呼ばれる)もまた反則であり、基本的には二手指しなどと同じく即負けである。駒から手を離した時点で着手が完了となるため、一旦駒を動かしても手を離さなければ、その時点では元に戻して別の手を指してかまわない。ただし、仲間同士の気楽な対局や駒落ちなど指導を目的とする対局の場合は、例外的に許可される場合もある。しかし、多くの人は「待った」をマナー違反とみなすため、注意が必要である。

記録に残っている1977年から2005年までに、プロの棋戦で発生した反則のうち、回数が多いものは以下の通り。

その他、特殊な例として、

成銀を打ってしまった(金と見間違えたとの事)。

自分が取った駒を相手の駒台に乗せてしまった。

盤上から駒台に移ってしまった香車を持ち駒として使用した(着物の袖が当たったことが原因である)。

後手が先に指した(これも二手指しの一種である。あえて言えば

「0手目」という架空の後手の指し手と合わせて2手となる)。

相手の駒を取った後、別の場所に駒を動かしてしまった(8八の玉将で7八の相手の馬を取ったが、馬を駒台に移した後玉将を8七に移動させた)。

いったん不成で敵陣に置いたように見えた駒を持ち直し、成りに変えた。対局はそのまま継続されたが、テレビ放送後の視聴者の抗議を受け、「待った」であるとされた。

自分で自分の駒を取る(国際将棋トーナメントBクラス日本代表のさかもと未明)

という反則が知られている。

その他

「将棋を打つ」という表現がなされることがあるが、将棋は「指す」ものであって「打つ」ものではない。ただし、持ち駒を盤面に配置することは「打つ」という(多くのテーブルゲーム類の中で「指す」と言う表現を用いるのは将棋類のゲームのみ)。

「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と思っている人がいるが、そのようなルールは存在しない。

戦略と戦術

詳細は「将棋の戦法一覧」および「将棋の格言」を参照

ゲームの進行ごとの戦略

一局の対局はおおよそ100手前後(先手・後手それぞれの着手を1手と数える)で勝負がつくが、対局全体を大きく以下の3つに分けることができる。ただし、何手目までが序盤であるかなど、明確な線を引くことは通常はできない。

序盤 - 初手から駒組みが完成するまでのおおよその間。

中盤 - 駒組みが完成し、両軍の駒のぶつかり合いが始まってから、劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めるまでのおおよその間。

終盤 - 劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めてから、終局までの間。

序盤戦

序盤戦はまず戦型を選択するところから始まる。

初手は角道を開ける▲7六歩か飛車先の歩を突く▲2六歩のどちらかが多く、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。しかし、先手ゴキゲン中飛車や藤井システムの登場などにより新しい指し方の研究も進んでいて、▲7六歩や▲2六歩以外の初手についても(まだまだ数は少ないが)いろいろと試みられている。

戦法は、飛車を初期位置から動かさずに攻める居飛車戦法と、左へ動かして展開する振り飛車戦法の2通りに大別され、それぞれに定跡が研究されている。その知識と研究に加えて、相手の動きを見ながら先々の有利を見すえる大局観が重要となる。

基本的には金や銀を使って玉の守りを固め(囲い)ながら、駒を繰り出して敵を攻める体勢を作ることになる。囲いを簡略化してすぐに攻めに入ることを急戦といい、じっくりと守りを固めてから戦いに入ることを持久戦という。双方が囲い合い、駒のぶつかり合いが始まると中盤戦に突入する。

なお、序盤戦での攻め駒と守り駒の配分については、標準的には攻めは主に飛角銀桂(香歩)、守りは金2枚銀1枚と言われている。ただし、これはあくまでも標準であり、金銀4枚すべてを囲いに用いる場合など異なる場合もある。

中盤戦

中盤戦は、駒を取り合い、敵陣に切り込んで相手の囲いを崩しに行く戦いになる。駒の損得と働きが重要になる。

銀、桂、歩などを繰り出しながら相手の駒を攻めて駒得(「駒の価値」の項を参照)を狙い、敵陣に攻め入って竜、馬やと金などを作って相手玉の囲いを脅かすこと、またそのような相手の攻めを防ぐ(受ける)攻防が主となる。攻めと受けのどちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。一方または両方の囲いが崩れ出すと、終盤戦に突入する。

なお、駒組みが未完成のまま駒がぶつかり合うことになってしまった場合などには、中盤戦といえるものがはっきりとせず、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価されるような場合がある。

終盤戦

終盤戦では、相手の玉を詰ましに行く(寄せる)戦いになる。駒の損得よりも玉を寄せるスピードが重要となり、正確な読みの力が重要となる。

囲いを崩しながら相手玉に迫り、詰めろをかけ続け、最終的には詰将棋のように王手の連続で詰みまで持っていくことになる。お互いに玉に迫りあっている場合、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうので、1手の緩手で勝敗がひっくり返ってしまうこともある重要な局面である。

一方的に攻められている場合は玉が詰まされないよう逃げ道を確保する。入玉を目指し早めに逃げることもある。

形勢の判断

局面の形勢判断の要素としては、玉形の状態、対局者双方の駒の価値(駒得か駒損か)、手番を握っているかどうかなどがある。

玉形の状態

玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の位置のことである。遠さ、堅さ、広さなどの要素で判断される。

遠さ 基本的に玉は五筋(中央)から離れているほど良いとされる。これはマスの端よりも外から駒が効くことがあり得ないため、玉周辺への攻めが集中しにくいことと、端にある駒(桂馬・香車)が初期位置から動かすことなく防御に使えるためである。通常、玉は戦場(攻め駒がぶつかりやすい場所)からできるだけ遠い場所にいるほうが安全と考えられており、これに関連する将棋の格言として「居玉は避けよ」や「玉飛接近すべからず」などがある。ただし、局面の展開によっては端にいることで逆に逃げる場所が無くなり負けてしまうこともあるので、一概に端にいれば良いというわけではない。 堅さ 玉の周りに置かれる駒を一般的に囲いと呼び、囲いに使われる駒の位置も玉形に含まれる。将棋では囲いの防御の性能を「堅い」あるいは反対に「薄い」などと表す。 囲いは通常自分から動かすことはない。なぜなら囲いとして駒を置いた位置が、最も玉を守れる形である場合が多いため、その位置から動かすことは囲いの性能を落とすことになる。この囲いに使われる駒を攻められ、位置を移動させられたり(駒を移動させて防御の性能を落とさせることを崩すという)、駒自体を取られたりする(囲いの駒を取ることをはがすという)と玉形が悪くなり囲いは薄くなる。 この玉の位置と囲いの形を総合して玉形と呼び、この状態が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。たとえ駒得をしても玉形が悪ければ形勢が不利とされることがある。相手の玉形を悪化させるためにわざと駒損をしたり、逆に玉形を悪化させてでも駒得を狙うこともある。 一般には金や銀といったいわゆる金駒や角の成った馬が玉の周りに囲いとして組み込まれ、その枚数が多ければ多いほど堅いと評価されるが、囲いを形成する駒相互の位置関係によって囲いの堅さは大きく変化する。例えば一般に角や桂といった前のマスに効きのない駒(将棋では頭が丸い駒という)は玉の上部の防御には不向きである。なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響されるため、相対的に玉形が良いとされることはあるが、この形が絶対的に良いと呼べる玉形はない。例えば居飛車同士の場合、玉は上からの攻めに囲いを使うが、この時の囲いは横からの攻めに弱く、相手が振り飛車であった場合、同じ囲いだと玉形は非常に悪い。 広さ 最終盤では玉形の評価として「堅さ」の要素とは別に「広さ」の要素が評価されることもある。「広さ」は具体的には玉の逃げ場所の広さをいい、広ければ広いほどプラスに評価される。相手玉を詰ませるためには攻め駒が必要となるが、相手玉の逃げ場所が広ければ広いほど詰ませるのに多くの攻め駒を必要とする(捕まりにくい状態になる)からである。序盤に築かれた玉の囲いが相手側の攻めによって崩された場合でも、終盤の局面で玉に有効とみられる逃げ道がある場合には広いとプラスに評価されることもある。

駒の価値

詳細は「大駒・小駒」を参照

玉将、王将は最高の価値を持つ。 駒の価値は次のような順になる。

1.王将、玉将

2.飛車

3.角行

4.金将

5.銀将

6.桂馬

7.香車

8.歩兵

飛車と角行を大駒といい、それ以外を小駒という。ただで相手の駒を手に入れたり、価値の低い駒を捨てるかわりに価値の高い駒を手に入れたりすることを駒得(こまどく)といい、一般的には有利になる。その反対は駒損(こまぞん)という。

角行1枚と銀+桂の合わせて2枚との交換など、大駒1枚と小駒(歩兵を除く)2枚を交換することを二枚替えという。一般的には小駒2枚を得た側が有利とされる。例えば、飛車を手に入れたかわりに金と銀を渡した場合、飛車自体は最も強い駒であるが金銀の2枚を失った方が不利になる場合が多い。ただし、駒の価値が大差である場合の二枚替えは有利とは言えない。

この判断基準として、谷川浩司と佐藤康光による駒の価値の評価(点数付け)が参考になる。

(括弧内は、成り駒の場合)

考え方の例として、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)した場合を挙げると、谷川方式



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