2012年5月16日水曜日

新田孝彦著『カントと自由の問題』


自由、他行為能力、さらには人間の責任、これらと決定論とは、いかにして両立可能なのか。本書の目的は、現代においても活発に議論されるこの問題に対して、著者独自のカント解釈に基づき一つの解決案を提示することにある。本書の構成は大きく三つに分かれる。すなわち、第一に、いままでの両立論の試みを概観する部分(第一章)、第二に、そうした試みに欠けていた洞察を現代行為論に求める部分(第二章)、第三に、両者を越える(ないしは統合する)議論を、批判哲学の検討を通じて提示する部分(第三章〜第七章)である。以下、この区分けに沿って概観する。

著者は、いままで試みられてきた三つの両立可能論の立場、すなわち意志の自由を肯定する立場、意志の自由を否定する立場、物理的非決定論に基づき動作の自由を保持しようとする立場を検討している。

第一の立場としては、アウグスティヌスと前批判期(『形而上学的認識の第一原理の新しい解明』)のカントとが取り上げられる。両者に共通な解決の方向性は、意志という概念の本質(自発性)に訴えるという点に見られる。著者によれば、アウグスティヌスの洞察とは、「『意志』とは本質的に外的な『原因─結果─系列』を断ち切る性格を有し、それゆえ『意志』をそうした『原因─結果─系列』におけるひとつの項のように取り扱うことは概念上誤りである」(20頁)という考えにあり、カントもまた「意志の自発性」(26頁)に訴えていた。だが、たとえ意志という概念の本質がその自発性にあるとしても、いかにしてこの能力は、彼らが同時に受け入れていた(アウグスティヌスの場合は神に基づく、そしてカントの場合は決定 根拠律に基づく)世界の普遍的決定性と整合できるのだろうか。両者はこの点を明確にしなかった。つまり、「意志の自由たるゆえん、すなわち、意志はこうした世界経過の普遍的決定性の連鎖のうちには存在せず、それゆえ意志に基づく〈行為〉と必然性ともって生起する〈出来事〉とは種別的に異なっている、と語りうる根拠」 (63頁)が欠けているのである。

これに対して、むしろこうした意志を否定する、つまり行為を出来事へ還元しようとする試みが第二の立場である。この立場を徹底したのはヒュームである。彼は、動機・気質・環境と行為との間に見られる「恒常的連接」から、これらの間にも外的物体と同じ意味での因果関係を認める。つまりこの解釈によれば、外部に原因を求めることのできない「自由意志」は否定され、行為の直接的な原因である意志における「強制の不在」(39頁)ないしは「外的障害の欠如」(35頁)という形のみが認められる。しかし同時に、この考えにもとづくと、「帰責が通常の理解とはきわめて異なった仕方で解釈される」(42頁)ことになる。つまり、ある人の責任を問うのは、彼が他行為能力をもっているからではなく、それによって「何か有益な� ��果が期待できる」(同上)からなのである。こうした帰責理論は、「無実の人間の処罰をもみせしめの刑として正当化しうる」(同上)以上、とても受け入れることはできない。こうした方法によって、「われわれの日常的な〈行為〉概念を適切に説明することは不可能であるように思われる」(307頁)のである。

このような不合理な見解に対して、むしろ普遍的決定論を否定する、つまり動作の自由を示すことで自由意志を確保しようとするのが第三の立場である。著者は「予言破りの自由」および「エントロピー減少系における非決定性」を考察し、各々の主張に対して別々の批判を展開するが、両者に対する根本的な批判は、「世界を『閉じた物理系』として捉える点」(60頁)に向けられる。普遍的決定論を否定することが仮に可能であるにしても、それによって示される動作の自由は、せいぜいのところ「無差別の自由」を意味するに過ぎない。ところがこうした意味での自由は偶然に他ならず、帰責の根拠にはなりえない。なぜなら「帰責の論理は、完全に偶然的に生じた結果に対する責任までをも要求しているわけではない」(27頁)から である。それ故にこの見解をとることもできないので ある。(61頁)

第一の立場と第二・第三の立場とを区分するのは、行為を出来事に還元しうると見るのか、しえないと見るのかという点にかかっている。第一の立場のように自由意志を認めるのであれば、それにもとづく「行為」と「出来事」とは区別されなければならないし、第二・第三の立場のようにそれを認めないのであれば、「行為」は「出来事」に還元されるだろう。そこで著者は、第二のステップとして、「行為」と「出来事」との関係を問う現代行為論へと向かう。


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「行為」という概念を明確にするために、著者はまずその要素とも言える「基礎行為」という概念を分析する。著者によれば、基礎行為とは、「行為に密接に関連した」、あるいは「行為の基礎をなす身体的動作」(82頁)である。(例として、指で押す、指を曲げる、手を伸ばす、うなずく、足で蹴る、音声を発する、等の行為が挙げられている。)[1] そしてこれはたんなる身体的動作から厳密に区別される。というのも行為ないしは基礎行為には「自発性」という契機が含まれているからである。(同上)

それでは「行為」とその要素である「基礎行為」との関係はどのようなものであろうか。次のような例を考えよう

  1. 「腕を上下に動かす」
  2. 「ポンプを押す」
  3. 「水槽に飲み水を補給する」

この中で基礎行為にあたるのはAである。それではA─B─Cの連関はいかなる類のものか。一つには、「原因─結果関係」と捉える見方がある。つまり、AがBを引き起こし、BがCを引き起こすという考えである。しかしその場合には、A, B, Cは別々の行為と見なされることになるが、これは明らかに不合理である。むしろ「いくつかの行為としての記述を持つひとつの基礎行為が存在する」(86頁)と考えるべきであろう。つまりA, B, Cはひとつの記述に対する様々な記述であり、それらの間の関係は、「手段─目的関係」として捉えられるべきなのである。(AはBをするための手段であり、BはCをするための手段である。)

こうした基本的な論点を押さえた後で、著者は行為の因果説と志向説との対立を概観する。その対立は、「行為を意図(主たる理由)から説明することは、何を意味するのか」という点にかかわる。因果説によれば、それは、「行為を〈原因と結果〉という、出来事を説明するパターンのうちに置くこと」(89頁)だと主張する。しかし著者は志向論者(フォン・ウリクト)と共に因果説を批判する。フォン・ウリクトは、「或る行動αを意図的である[行為:堂囿]と確定すること」と「その意図が何であるかを確定すること」(93頁)とは独立になされえないと考え、意図と行為とが論理的に独立に生じうると主張する因果論者に反対する。すなわち、一方で、Aのとる或る行動αを意図的とみなすには、「Aが何らかの目的の達成を意図し ており、αをそのための手段として認識していたということ」(94頁)の実証を要求するし、他方で、例えば[2] 当人に直接尋ねる(「君は何をしているのか」)という仕方でAの意図を確定するには、Aの答え(「窓を開けようとしている」)がある身体的動作(例えば「腕が上にあがる」)を意味しているのだと尋ねる人が理解していなければならないが、このことはすでに尋ねる人がその動作を意図的(「腕を上にあげる」)と見なしていることを意味するのである。(95頁)著者によれば、意図から行為を説明するとは、「すでに意図的であると把握された身体的動作(基礎行為)のさらなる意図(目的)を説明している」(100頁)ことに他ならない。言い換えれば、「すでに意図的な身体的動作つまり「基礎行為」として把握された行為を、さらに広いパースペクティブのもとにもたらすこと」(101頁)なのである。

こうした考察から明らかになるのは、「われわれは或る意味でははじめから、『基礎行為』である身体的動作(行為)とたんなる身体的動作(出来事)とを区別している」(102頁)ということ、そしてその違いはそうした「二つの事態を惹き起こす[意図と出来事という]原因のその原因性格の異なり」(110頁)に由来するということである。それでは著者は現代行為論のどこに不満を覚えるのか。それは「意図するとはいかなることであるのか、あるいは意図それ自身はいかにして生ずるのか」(111頁)という考察を、(因果論者はもちろん)志向論者がしていないという点にある。「行為の原因と目された意志あるいは意志作用をその本質において理解すること」(112頁)が必要なのである。

 著者は、『純粋理性批判』原則論、とくに第二類推を検討することにより、なぜわれわれが世界の普遍的決定性を受け入れざるをえないかを、そして同書弁証論(第三アンチノミー)を検討することにより、にもかかわらずなぜ自由を想定しうるのかを確認する。第二類推の課題は、われわれが現実に有する「変化という経験は原因性の法則に従ってのみ可能である」(139頁)ということを示そうとしている。著者はその論証を、第二版で付された証明にならっておおよそ次のようにまとめている。(135-139頁)


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われわれは変化ないしは出来事を経験する場合、相反する知覚を結合している。結合は構想力によってなされるが、構想力は二つの知 覚を任意に結合しうる。しかし出来事とは二つの知覚の必然的な秩序を意味する。そして「総合的統一を有する概念は、知覚のうちには存しない純粋悟性概念しかありえず、ここではそれは原因および結果の関係の概念である。このうち前者は後者を時間において、帰結として規定し、そしてたんに構想において先行する(あるいはおよそ知覚される)かもしれないものとして規定するのではない。」(B 234) (138頁)

それではこのような形で基礎づけられる世界の普遍的決定性と自由とはいかにして両立しうるのであろうか。その解決は、弁証論の第三アンチノミーに見られる次のような文言から知ることができる。

従って、感性界において現象と見なされなければならないものは、それ自体として、感性的直観の対象では決してない能力、それでもこれによってそのものは諸現象の原因でありうるような能力を持っているならば、われわれはこの存在の因果性を二つの側面で、つまり、物自体としての因果性の働きに関しては叡知的なものとして、感性界における現象としての因果性の結果に関しては可感的なものとして、考察することができる。(B566、傍点:堂囿)(196-200)

もちろんこうしたアンチノミーの解決が、「夙に悪評の高い」「現象と物自体という二元論(二世界説)」(202頁)に基づいていることは、上の引用からも明らかである。だが筆者は超越論的自由を、二世界説にもとづいて確保するのではなく[3](むしろこうした確保の仕方は、超越論的自由の「思惟可能性」(203頁)しか保証できず、結局のところ実践的自由に基礎を与えることができない点で不十分だと筆者は考える)、「経験の構成的原理」(210頁)と見なすことで正当化する。この点は著者のカント解釈の独創的な点でもあるので、以下詳しく見てみよう。

著者は、経験の類推(第二類推)と超越論的自由とが、ともに「統制的」(regulativ) と呼ばれている点に着目する。著者も十分に意識していることだが、カントが両者を「統制的」と呼ぶさいに、それらの意味は異なる。すなわち、第二類推は、出来事の原因を認識させるのではないという意味で統制的であるが、もちろん出来事という経験を可能にするという点では構成的である。ところが超越論的自由は後者の意味ですら構成的と呼ぶことはできない。というのもそもそも超越論的自由は理念であって、経験、さらに言えば感性には関わらないからである。しかし著者はこうした一般的な解釈を斥ける。というのも「経験の構成的原理でありうるか否かということは、『或る概念ないしは原則をアプリオリな原理として使用することによって、経験が構成されうるか否か』という点にのみ掛かっている」(209頁)からであ� �。問題なのは超越論的自由が何らかの経験を構成するために不可欠な要素なのかどうかである。そして著者は、超越論的自由は、行為という経験を構 成するアプリオリな条件だと考える。「われわれが出来事経験とは区別された行為経験を有し、行為を自由に基づくものとして説明せざるをえないかぎり、この『自由による原因性』という概念を行為経験の構成的原理として認めることは可能であるように思われる。」(210頁)行為論の検討から明らかになったように、「行為」と「出来事」という二つの経験は、「等根源的な仕方で」、あるいは「あらかじめそれぞれの相貌をもって」 (71頁)経験される。そしてその差異を形作るのが、そうした経験を構成する原理の差異なのである。[4]

それではこうした「行為経験」、つまり超越論的自由を構成的原理とする「行為経験」の本質はどこにあるのか。著者はそれをカント同様、「格率」、すなわち「意欲の主観的原理」(IV, 400 Anm.)に見る。そこで問題となるのが、「自由を人間の意志に帰する正当な権限」(221頁)を探究することである。


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カントにおける意志の定義において顕著なのは、「『意志』と『理性』との概念的な結合」(223頁)である。例えば次のように言われる。「自然のあらゆる事物は法則に従って作用する。理性的な存在だけが、法則の表象に従って、つまり原理に従って行為する能力を、言い換えれば意志を有する。」(IV,412)そしてこの結合は非常に重要である。というのも、「人間的選択意志における理性の働きそのものが、おのれを動物的選択意志から区別する」(228頁)からである。動物的選択意志は、「感受的に強制される」(226頁)が、人間的選択意志は、確かに感性の動因によって触発されはするものの、動物と同じ意味では強制されない。そしてこの違いを形作っているのが、理性、つまり「感性的衝動による強制とは独立に、自分を自ら規� �する能力」(B 562)なのである。「他律」という場合ですら、われわれの意志は決して動物的選択意志なのではない。というのも、他律においても、意志が傾向性や衝動を自らの原理として「採用する」という意味での理性の働きがあるからである。(238-239頁)つまり、「自律と他律とは、意志規定の在り方そのものに関する対立ではなく、その意志規定の根拠に関する対立」(241頁)なのである。

このような解釈に従うと、「選択意志」と「意志(純粋意志)」との関係はどのように考えられるのか。『基礎づけ』における定言命法の超越論的演繹はまさに両者の関係を問うたものである。ここでは、一見すると、「二つの立場」(IV,452)、すなわち二世界説にもとづく解決が図られているように思われる。しかしここでも著者は安易に二世界説に訴えることを斥ける。著者によればこうした解決方法は、「〈べし〉という当為を…何らかの実在の本性から導出するという意味で…『自然主義的誤謬』と同種の『形而上学的誤謬』」(257頁)に他ならない。むしろ著者の解釈によれば、「アプリオリな総合的─実践的命題である定言命法の場合も[カテゴリーの超越論的演繹と同じく:堂囿]、その超越論的演繹は、それがまさにわれわ� �の実践的認識のアプリオリな制約であり、実践的経験の可能性の客観的根拠であるということを証明することが、その課題」(259頁)なのである。すでに他律という事態においてすらも理性という要素が不可欠なことを見た。そして「『純粋意志』は、『選択意志』に対して欲求や欲望といった『パトス的起動力』とは異なる『知性的起動力』としての資格を与える超越論的規準であり、この『純粋意志』の理念を根底に置くことなしには、いかなる選択意志も『人間的選択意志』と考えることはできないという意味での超越論的規準である」(260-261頁)。[5]

だが著者によれば『基礎づけ』のカントは不徹底である。というのも『基礎づけ』第三章では、「実践的観点においては、悟性界が感性界の超越論的根拠」(262頁)だということが示されており、これによってある意味では(つまり道徳法則を実践的経験の可能性の条件として示したという点で)演繹が果たされていると見なしうるにもかかわらず、同時に「意志の自由が証明されなければ、道徳性そのものが虚構となる」(291頁)と述べられているからである。つまりここでは「自由は道徳法則の存在根拠であり、同時に認識根拠である」という「実在的な『二世界説』」(263頁)が払拭されていない。そして、「自由は道徳法則の存在根拠であり、逆に後者は前者の認識根拠である」としたところに『実践理性批判』の「転回」が存す� ��のである。(これは同時に「方法論的・超越論的」(同上)二世界説への転回でもある。)

この転回を最も特徴づけるのは、道徳法則を「理性の事実」とした点にある。すなわちそれは、「理性自身によって、理性自身に対して与えられる」(286頁)「純粋実践理性の自己意識」(287頁)という点で「理性の」事実であり、また、純粋実践理性の「証明根拠である道徳法則それ自体がもはや正当化を必要としない」(288頁)という点で理性の「事実」である。そして、この「理性の事実」によって、道徳法則、さらに純粋実践理性の実在性は導き出されるのであるが、このことは同時に両者の演繹を意味する。なぜなら演繹とは本来、「『経験を可能にする原理』(B 168)の証明をもって遂行されている」(300-301頁)のであるが、道徳法則や純粋実践理性もまた、「理性の事実」から導き出されるまさにそのときに、「或る種の経験の可能性の原理」、つまり「道徳法則によって可能となる行為の原理」(301頁)であることが示されている以上、演繹されていると考えることができるのである。



[1]著者は、黒田亘(『行為と規範』勁草書房, 1992年, 64-65頁)にならって、「基礎行為」は次の三点において基礎的だとしている。(83-84頁)

  1. 記述的観点から…行為を記述するには、より単純な基礎行為をもとにしている(金庫を開けるという行為を、鍵を差し込んで右に回してから、ダイ ヤルを左に三回まわすと記述する場合)。
  2. 目的論的観点から…行為は重層的な手段─目的構造をもつ(手を回す→鍵を開ける→金を取り出す)が、基礎行為は、つねに目的ではなく手段にな る。
  3. 因果論的観点から…基礎行為は、他の行為によって因果的に引き起こされる行為ではなく、まさに「第一原因」(アリストテレス)である。

[2] 著者はこの他にもいくつかの方法を提示している。

[3] 丹治信春氏は本書の書評(『現代カント研究6 自由と行為』晃洋書房, 1997年, 185-189頁)において、「ここでは、現象界と叡知界という、いわゆる『二世界説』そのものを問題とすることはできない。それは、私の能力の上でも紙幅の上でも、大きすぎる問題だからである」(185頁)と述べるが、本書の独創的な点の一つは、後に見るように、間違いなく二世界説をめぐる見解にある。

[4] 丹治氏は二つの批判点を提示しているが、そのうち第一の批判は、著者が「『意志の働きそのもの』の自由さえ確保できれば、自由の問題は解決されると考えているように見える」(186頁)が、「その『結果』である現象の『自然必然性』が成立する限り、自由の問題はそのまま残っているとしか思えない」(同上)ということである。丹治氏は、一方で、ある身体的動作は自然必然性により決定されており、他方で、自由な意志により別の仕方で行為することもできると主張するのは、「明らかに不合理」(同上)なのである。

だが、ここでの著者の立場を踏まえれば、こうした反論はそもそも本書の意図を全く理解していない点で的外れだということが分かるだろう。それは次のような著者の言葉から明らかである。

…行為がたんなる現象に即して記述され、そして、例えば「手を上げる」という〈行為〉記述が「手が上がる」という〈出来事〉記述と重ね合わされうると想定され、さらに、そこで重ね合わされた記述が同一の事態に関する二つの異なった記述であると理解されるときには、そもそもわれわれ は、本来行為がその固有の相において問題とされるべき仕方で行為を捉えているのではない…。(214頁)

つまり、自然必然性を前提とした上で意志や行為の自由を問うということそのこと自体が、著者にとってはカテゴリーミステイクなのである。丹治氏の反論は、著者の根本的な立場、つまり出来事経験と行為経験とは根源的に異なる経験だという立場を認めていないことにもとづいている。

[5] 丹治氏の第二の批判点は次のようなものである。著者は、意志行為の規準を、「〈なぜ〉という問いが受け入れられるというところに存する」(アンスコム)と考えるが、チェス・コンピューターの場合のように、「道徳とか責任とかが問題となるよりも、いわば『深刻さ』の程度がずっと低い」(187頁)行為もこの規準を満たしうる以上、第一に、「あらゆる〈行為〉(あるいは行為経験)の成立にとって『道徳法則』がアプリオリな制約であるとは言えない」(188頁)し、第二に、自然必然性に従ったコンピューターの「計算的『合理性』」(同上)も「かなりの程度の複雑さをもてば、あたかも『熟慮の上での自由な行為』のような概観を呈することがありうる」(同上)のである。

これに対しては、以上の著者の緒論を踏まえれば次のような答えを与えることができる。第一に、チェスをするという行為は、さしあたり「勝ちたい」という傾向性に支配されている。その限りでわれわれの意志は他律的であり、われわれの従う格律は仮言命法(この場合には「熟練の命法」)である。しかし著者によれば、他律という事態そのものが純粋意志を前提としなければそもそも成立しえないのであり、それは結局のところ純粋意志の法則である道徳法則を前提とすることに他ならないのである。第二に、コンピューターの問題であるが、著者の考えを敷衍すれば次のように考えられるはずである。もちろん自然必然性に従うコンピューターについて自由を語ることはできるかもしれない。しかしコンピューターの振る舞いにつ� ��て、われわれが「なぜ」という問いを発するとすれば、つまり「行為」と見なすのであれば、われわれはもはや出来事のネットワークの中でその振る舞いを捉えているのではないのである。



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