クリックすると"EARTH DAY"と出ました。先日WWF(World Wildlife Fund=野生動植物基金)が世界中の現地時間午後10時に1時間丈明かりを消して自然保護を訴えました。私はPCの具合が悪くそのnews letterを見たのは肝心の時間が終わった後でした。
将棋羽生善治名人とチェスNigel Short名人のチェス対局
chessの説明を入れたかったのですが、字数制限があるのか2度やっても、貼り付けができませんでした。Wikipedia日本語版でご覧になれます。ご理解下さい。
3時間近く格闘した結果です。
NHK午後7時ニュース
違う世界の名人同士が対局し最後羽生名人は引き分けで終えました。
羽生善治
Wikipedia日本語版
羽生善治 王位・棋聖
38歳当時
名前:羽生善治
生年月日:1970年9月27日(41歳)
プロ入り年月日:1985年12月18日(15歳)
棋士番号:175
出身地:埼玉県所沢市、東京都八王子市
師匠:二上達也九段
永世称号
十九世名人(襲位は原則引退後)
永世王位(就位は原則引退後)
名誉王座(同上)
永世棋王(同上)
永世棋聖(同上)
永世王将(同上)
名誉NHK杯選手権者
在位中タイトル
王位・棋聖
段位:九段
戦績
タイトル獲得合計:80期(歴代1位タイ)
一般棋戦優勝回数:40回
羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。血液型AB型。
概要
1996年2月14日に将棋界で初の7タイトル独占を達成。
通算タイトル獲得数は、大山康晴に並び歴代1位タイ。全7タイトル戦のうち竜王戦を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格の保持(いわゆる「永世六冠」)に加え、名誉NHK杯選手権者の称号を含めた7つの永世称号の保持は史上初である。
また、2011年7月に棋聖のタイトルを取得した事でタイトル保持を22年間維持し、大山の21年間を抜き、中原誠の22年間に並んだ。
羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。
プロデビューまで
埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住む。
小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わる。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになる。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた。
道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり、いわゆるアマ強豪のレベルとなる。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による'連合軍'と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった。
1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である'赤ヘル'を被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)。
そして、1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝をする。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する。
5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた。しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司新八段だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた。
同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[注 5]により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。
戦績
末尾の年表 も参照。
デビュー、そしてスターダムへ
第38回 NHK杯戦 準々決勝
第60手 △3二同玉まで
(この次の一手が▲5二銀)
△加藤一二三 持駒:桂歩
▲羽生善治 持駒:角金銀二香歩
デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率1位賞を受賞する。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定[注 7]のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に打った妙手▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)に驚いた解説役の米長邦雄は「おぉー、やった!」とマイクの音が割れる大声を上げた。対局室と解説室は離れているにもかかわらず、その声は対局室の羽生に聞こえた。
この1988年度は、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、しかも、その後に3回(合計4回)達成している(将棋大賞 を参照)。
1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を得、タイトル戦初登場。七番勝負の相手は、研究会「島研」での'恩師'であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった。
翌年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、以降、一冠以上を保持する状態が長く続く。また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である。
七冠独占
1992年度、第40期王座戦で福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。
同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、「タイトル保有の図式が逆転」した。
1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」。しかし、竜王位を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。
一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。羽生は3連勝・2連敗の後の第6局で勝ち、奪取。
同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。
この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。
そして最後の第7局(1995年3月23 - 24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名)。敗れた羽生は、「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った。
ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。そのかたわら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取る。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった。
【七冠達成の図】
第45期王将戦第4局
82手目△7八金
△羽生善治竜王・名人
持駒:金銀桂歩四
▲谷川浩司王将
持駒:飛角金桂歩三
第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県のマリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日 - 2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。
4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を成し遂げた。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという。
タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。
なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった。
直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、歴代2位の0.8364(46勝9敗)という数字であった。
新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。
次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で伏兵・三浦弘行五段を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引きの趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日 - 7月30日 = 棋聖失冠日)。
七冠以後